ぺんしるブログ

行き先不安な現代社会。僕たちは社会科で何を学んできたのか。

第8号 変わるもの、変わらないもの

公民という科目は、中学校の第三学年から始まるが、

実はそれ以前にも言葉自体は、もう少し前に出会っている。

それはどのタイミングかというと、第一学年歴史の「公地・公民」である。

さあ、何時代の言葉だったか覚えているだろうか?

 

答えは飛鳥時代で645年のことだそうな。

有力豪族の力を削ぎ、天皇中心の中央集権国家を築くために、

土地と人民を国家の所有とした体制である。

公地・公民前後の徴税の様子の変化。各地の有力豪族が支配していた土地と人民を国家が直接支配する仕組みに変わったとされる。

かなり古くから使われていた言葉だが、公民は「オオミタカラ」とも読まれていた。

また「オオミタカラ」は「大御宝」とも書かれ、天皇にとって

人民は宝であることが示されている。

何とも有難いお言葉である(大+御 で強い尊敬を表す)。

 

そこから中世にかけて公民という言葉は聞かれなくなるが、

近代の明治時代末期になって、「地方の有権者」という意味で、

「市町村ノ公民」という言葉が登場する。

ただ大日本本帝国憲法の学習でも出てきたように、

国民は「臣民」という位置づけであり、天皇の民、すなわち皇民=公民という

意味になった。教育も当然同様の性格を帯びていたことになる。

天皇大権の下での公民教育だったのである。

 

ただ、そのような前提があったものの、近代国家である大日本帝国としては、

全ての国民に、国家の形成者としての資質を育てる義務があるわけだから、

社会制度や地域社会との関わり方について学んでもらわないといけない。

そこで1924年(大正13)に出された実業補習学校(農業)の公民科教授要綱を観てみよう。

ちなみに実業補習学校とは、高等小学校中学校高等女学校などの中等教育

進学しない義務教育修了者で、勤労に従事する青少年を対象に実業教育を実施していた

学校だそうだ。教授要綱は農村用と都市用の2つがあるが、ここでは農村用を取り上げる。

1924年発行の実業補習学校公民科教授要綱(農村用)の単元内容。釜本健司氏『戦前「公民科」の成立と公民教育論の諸相ー『教科構造』を分析視点としてー』(2005)より抜粋。

まず特徴的なのが農村用の公民科ということで、

農業社会に関する単元が点在することである。

第一学年の14.農村ト青年や、第二学年における12.農会、13.農村ノ開発などは

それをはっきりと示している。また筆者の調査が不十分なため、

詳細は分からないが、例えば第一学年における6.財産であったり、第二学年の9.租税

第三学年の14.社会改善も、おそらく学習者にとって関わりの深い農村社会の要素を

含んでいるのではないかと推察できる。

 

また町村会帝国議会などの政治的分野一家ノ生計租税といった経済的分野

さらに我ガ郷土社会改善、世界ト日本などといった社会的分野も盛り込まれている。

そしてここはやはり戦前を感じるのだが、天皇臣民、国防といった内容もある。

とはいえ第一学年から第三学年にかけて、扱う社会の範囲が、

地域社会 ⇒ 町村や府県 ⇒ 国家 ⇒ 世界、というように徐々に広がっていくことも

分かる。この要綱に関連して以下のような主張もされている。

 

「余は第一に『人ト社会』より出発して、出来る丈(だけ)児童生徒の身辺より説き、

家、学校、職業、郷土、市町村、国家、世界等次第に大なる社会に及ぶを適当なりと

信ずる」

 

さてここまで見てきたように、実際どのように授業運営がなされてきたのかは

別として、少なくとも内容論としては戦前の教育と言えど、

現在の公民教育と共通したものがあるようだ。

 

戦前の教育、と聞くと国家や天皇のために全てを捧げる国民となるための指導、

というイメージが強い。勿論そういった場面があったことは事実だろうし、

特に戦火が激しくなってきた頃などはその傾向が一段と強かっただろう。

しかし、だからといってその全てに一様にレッテルを貼ることもまた

誤りであると感じる。

戦前の社会科の歴史はまだ十分に研究がなされていない。

今後ますますこの分野に光が当てられることを願う。

 

参考

平田嘉三『「公民」の概念と「公民的資質」』社会科教育研究 第49号(1983)

釜本健司『戦前「公民科」の成立と公民教育論の諸相ー「教科構造」を

分析視点としてー』社会科研究 第62号(2005)