前稿では、今日における中学校社会科の構造について、
いわゆるπ型の形式が一般的であるというお話をした。
つまり1、2年生の間は地理と歴史を学年で分けず、
むしろ地理で幾らか単元を学習したら歴史の学習に移り、
そこで幾つか単元を終えたら再び地理の学習に戻る、という形式である。
ちなみにこうした地理と歴史の学習方法を「地歴並行学習」という。
なぜこのような学習形態になったのか。
まぁそれなりの経緯があるようで、社会科という教科の在り方をめぐって、
「1つの教科としての総合性を目指すべきか」それとも
「各分野(地理・歴史・経済・政治・社会など)の独自性を重視すべきか」という
議論が背景にあったらしい。
前者は昭和20年代後半から始まった社会科であり、
戦後間もない頃の混迷とした、しかしある意味自由な風潮の中で生まれた。
授業内容は生活や社会上の問題を解決することに主眼が当てられており、
ここにも当時の社会情勢の影響を感じることができる。
現在では小学校3年生から社会科の学習が始まるが、
いきなり歴史や政治の難しい話はしないだろう。
きっと自分たちが住んでいる町や市の様子について学習を行うはずである。
そこに課題解決の姿勢がより強調されたバージョンであると想像して欲しい。
地域どころか社会全体に課題だらけだった終戦直後の日本では、
自ら社会に関わり、問題を解決する実践的な姿勢が求められたのである。
社会科学的知識は、その問題を解決するための手段として用いられた。
だから当時の学習内容の項目を見ても、歴史・地理・公民という
明確な区分は存在しない。あくまで総合的な枠組みなのである。
(とはいえ、実際の中高社会科は地理・歴史・公民的な枠組みも
もっていたようであるが)
しかしこうした生活上の問題の解決という学問的ではない、
いわばフワッとした課題で得た知識や経験は学力と言えるのだろうか。
そんな論争がいずれは起こるだろうというのは、想像に難くない。
早くも1958(昭和33)年の学習指導要領では、地理的分野、
歴史的分野、政治・経済・社会的分野(後の公民)の3分野制が制度として確立した。
社会科学として各分野を独立させ、それを相互に関連させるという方針に
切り換えたのである。(系統主義という)
このときの中学社会科は、1年生で地理、2年生で歴史、3年生で公民という
前稿で見た座布団型が原則とされたが、同時に「十分な準備がある場合」には、
地歴の並行学習も可能であるとした。
この部分に戦後社会科(初期社会科)で見られた、なるべく総合的に社会を
捉えようとした流れの影響を受けているのではないかと筆者は考えている。
いずれにせよ現在のπ型社会科は、戦後に生まれた二律背反的な2つの理念
ー「総合性か系統性か」あるいは「統合か分化か」ー
の産物であると言える。
各分野の系統性と社会科としての総合性との調整を図り、
各分野の関連性をより一層生かした指導計画が求められている。
しかし、地歴の並行学習を謳っておきながら、その関連性は必ずしも保障
されているとは言えない場合があるという。
次は実際の地歴の関連性について述べたいと思うが、
長くなってしまったので本日はここまで。
参考
『新版 社会科教育事典』日本社会科教育学会編 ぎょうせい 2014年
「戦後直後の社会科教科書ー1947~51(昭和22~26)年の文部省著作教科書ー」『近代日本の教科書のあゆみ : 明治期から現代まで』木全清博 2006年