ぺんしるブログ

行き先不安な現代社会。僕たちは社会科で何を学んできたのか。

第1号 はじめまして

日々ニュースを見ていると、たまに教育や学校現場に関する記事を見る。

みなさんは教育というテーマについて、どの程度関心をおもちだろうか。

特に近年は、SNSやネットの発達により、教育現場を取り巻く様々な取り組みや

課題がより広く報道されるようになってきたと感じる。

最近読んだ記事としては、私の地元地域の高校で、地域活性化のアイデアとして

市民ホールを借りて学生によるカフェを立ち上げたようである。

仕入れの際に地元商店と協力しており、学生たちの活躍の幅広さがうかがえる。

(少なくとも、私が学生の時分はこのような経験はなかった)

一方で、その活動の背景には、学校と役場の市民課、あるいは地元商店の方々との

連携があっただろうことも当然予想できるわけで、学校の教職員の運営力も

十分に発揮されているのだろう。

 

さて、このような記事に触れて、学校の取り組みを知りながらも、

私は「学校教育としてどこまでを求めるべきか、行うべきか」と考えた。

先のような実践は、その学校独自のものであり、教職員のサポートも受けながらも

学生らが主体となって行われた素晴らしいものであるのは間違いないが、

あくまでそれは、その学校のカリキュラムのほんの一部分でしかない。

むしろ数学や英語といった、私たちが想像するような教科の授業が大半だろう。

そうなると、学校としての教育はどんな方向を目指すべきかという疑問が

湧いてくるのである。

報道を見ると、学校の実践や学生の活躍だけでなく、学校現場の課題や教育業界の

将来の不安なども同時に取り上げられるが、なぜ教育が重要なのか、

それを学ぶことでどんな意義があるのか、深く切り込んで語られることは珍しい。

教育は国家の根幹であるという言葉をどこかで聞いたような気がするが、

その根幹について、私たちは国民として向き合っているだろうか。

このブログでは不定期ではあるが、そんなテーマについて私がなんとなく

考えたことを発信出来たらと思う。

 

そして可能であれば、これをお読みになった読者のみなさまの意見をいただきたい。

なぜなら「教育」とは誰しもが語る資格がある、間口の広いテーマだからである。

日本に住んでいる人ならば、およそ全ての人が学校で授業を受けているし、

義務教育の間であれば、世代や教科書会社の違いはあれど、

内容がだいたい統一された教材を用いて学んできた。

これほど、ほぼ全ての国民が、ほぼ同じ体験をしている出来事というのは、

他にはそうない。だから学校と聞くと誰しもが何かしら語るべきことをもっている。

また教育とは、決して学校だけに留まるものではない。

例えば親が子に行う教育、上司や先輩が部下や後輩に行う教育、

現場は違っても教育を施す方と受ける方が存在し続けるのは確かである。

立場が異なる人同士が関わっていく以上、このテーマからは離れることができない。

しかしそう考えると、この教育という話題はどこまででも広げることが

出来てしまう。下手をすると遭難する。

だから本ブログでは、その中でも学校で学ぶ社会科教育を中心に書いていく

つもりである。というのも私自身が大学時代、社会科教育を専攻していたため、

という至極個人的な理由である。

でも歴史や地理がお好きな人もきっとおられるだろうし、いいじゃないか。

というわけで細々とやっていこうと思う。